現地で長年タラウマラを研究している人類学者の上西和美さんによると「走る民」は多少省略化した形で、一般的には「ララムリ」は「軽い足」と直訳されるという。そんな軽い足を間近で見ることが出来るのは、この旅の中でも大きなトピックの1つだった。
走るという行為は、とてもシンプルで、コートの向こう側に対戦相手がいるわけでもなければ、団体競技でもなく、極めて個人主義に立脚している一方、だからこそなのか、人々は支え合い、励まし合いながら一体感と共有感を強め、その関係性は濃密になる。
それはコッパーキャニオンという辺境の地のプリミティブな場においても変わらずに存在する普遍的なものとして、走ることの奥深さと尊さに満ち溢れた忘れられないレースとなった。
レースが行われる前日のお昼に「キッズラン」が催された。そのスタートの様子がこの動画。ちなみに、コースの真ん中で青い帽子に黄色ジャケットを着てカメラを構えているのが石川弘樹さんだ。
子ども達の走りを観察してみると、スニーカーからワラーチ、ビーチサンダル、裸足と様々で、大会Tシャツを身にまとって跳ねるように走っていた。この年代にとっては日本の子どもと同様に純粋に走ることを楽しんでいる様子。
これは2位の男の子。
足下をみると裸足だ。
キッズランが終わると、前夜祭に向けてララムリたちが続々と集まってくる。村によって違う民族衣装を纏いウリケの町を練り歩く様子は、いやが応にも気持ちを高ぶらせた。
民族衣装を着た女の子。ララムリたちはとてもシャイで、なかなか目を合わせてもらえない。
民族衣装を纏いウリケの町を練り歩くララムリ
前夜祭の一コマ。外国人ランナーたちとの交流もこの旅に欠かせないものとなった。ランは簡単に国境を越えると実感した。
前夜祭の余韻が残るまま夜が明け、レースの日3月3日を向かえる。スタートは朝6時。距離は50マイル(80km)、制限時間は14時間。累積標高が2500mほどということもあり、ハセツネよりは長い距離ながら、標高差はそれほどでもない。
コースは縦長のY字型をしていて、折り返し地点によって何度も他のランナーとすれ違うように設計されていた。そのお陰で一緒に行った仲間や仲良くなった外国人ランナーと幾度となく顔を合わせることができたばかりか、伝説のランナー、マヌエル・ルナや、あのスコット・ジュレクを破ったアルヌルフォ・キマーレをはじめ、ララムリの、しかもトップクラスの走りを間近で見ることも可能だった。
彼らの足下は勿論ワラーチ。厚底のゴムタイヤと一本の革紐という最もシンプルなスタイルでどんな走りをするのか興味津々だった。当たり前なのだけど、ワラーチ姿を見て「やっぱ本当にこのスタイルなんだ!」と感慨深い気持ちになったことを覚えている。
写真右はアルヌルフォの全身写真。慎重は165cm程度と低く、無駄のないシャープな身体付きとすっと伸びた脚が特徴的だった。珈琲色の肌の艶感と独特のオーラが印象的。
アルヌルフォの足。ララムリの人々に共通していたのは、大地をしっかり掴むように親指のサイズが大きめで開いていることと、ふくらはぎのフォルムの細さだった
さて、実際の走る姿はどうだったのか。
「軽い足」のことを本「BORN TO RUN」では"雲のように駆け上がる"と表現していたが、僕たちは目を疑うような光景を何度も目の当りにする。それは、ララムリたちは上りは走り、平坦になると歩き、下りが上手ではなかったからだ。
勿論、ララムリの中のトップ級は別。今年の大会では2位と3位にララムリのミゲール・ララとシルビーニョが入っている(石川弘樹さんは5位)。彼らクラスとなれば平坦になると歩いて、下りが下手ということはない。
さすがに彼らは上りは速かった。雲のようにという表現が適切かどうかは分からないが、トップクラスだけではなく、子どもも女性も共通してスタスタと駆け上がる。そのフォームは頭が下がることなく背筋は伸び、真っすぐ前を向いて淡々としていて、上りのストライドは狭く、踵を付けずにフォアフットのままバネを利用しているように見えた。
彼らにとって、フォアフットだ!踵着地だ!という論争は皆無だろう。勿論、エアクッションなどの衝撃吸収、アーチサポートやヒールホールドという概念もない。古タイヤを足形に切り、3点穴を空けて革ひもを通すだけのワラーチは、一通りシューズを履いてきた結果生み出されたものではなく、彼らにはそれしか手に入らず、またそれで十分だからだろう。
コッパーキャニオンの路面状況は、トレイルと言っても、日本のようにふかふかしたものではない。大小入り交じった砂利道であったり、凸凹したダートであったり、赤土の砂上であったり、干上がった小川を走ったり、乾いた石が浮き石のように重なり合い、足下を不自由にさせ、硬い岩盤の上に様々な表情を持つ。そして途切れる暇もあたえないほど集中力を試されたため、僕たちは「ガレ場のデパート」と呼んでいた。
(写真左)人が二人ほど通るにやっとのトレイル。土地は痩せ、木々に葉っぱは少ない。足下は砂利と乾燥した土が混じったトレイルで、風が吹くと砂塵が舞う。(写真中)V字谷の岩肌を縫うように作られたトレイル。ここも折り返しコースだったため、多くのランナーとすれ違った。途中、馬もいた。(写真右)干上がった小川。ゴツゴツした場所のため、さすがのララムリもワラーチで手こずっていた。
一方、下りは日本人の方が遥かに上手と言えるかもしれない。大柄な外国人は想定通り、下りの細かいステップは苦手そうだったが、ララムリも上手と言い切れるほどではなかった。彼らは平地と変わらない足さばきで下り、そのスピードも特筆されるものではなかったように思う。
この動画は一緒に行った仲間がコースの試走会の様子を自撮りしたもの。
細かいステップを要求されるテクニカルなコースに慣れている日本人は、
キャーキャー言いながら駆け下りていた。
レースの日の気温は明け方が0度近くまで下がり、日中の陽射しはジリジリと差すようで40度近くまで上昇。空気は乾燥し、唇はすぐに乾き、汗はそのまま塩となるため滴り落ちることはない。コッパーキャニオンの峡谷の牙が容赦なく襲いかかる。
でも、苦しいのは僕らだけでなかった。ララムリもまた苦しんでいた。50kmを過ぎたマヌエル・ルナとすれ違ったとき、彼の顔は歪んでいた。僕は最後まで淡々と走っているものだと思っていたからとても意外に思い、そして、ちょっぴり安堵のような気持ちになった。
同じ距離を同じ暑さの中を走ることに大きな違いはないんだ。彼らだってこの焼き付ける中を必死に闘っているんだ。そう思うと無性に応援したくなった僕は、すれ違うマヌエル・ルナに向かって「アレ!マヌエル!!(頑張れ!マヌエル!!)」と叫び、彼はそっと手をこちらに向けて僕らはハイタッチをした。
ゴールをすると、先にフィニッシュしたランナーがそのまま地べたに座ったまま後続ランナーを待っていた。途中で声を掛け合った仲間として、同じ過酷な中を走り切った同志として、国も民族も超えた関係性が当たり前のように存在し、僕は覚えていないほどのランナーたちと抱き合った。そして、ララムリと一緒に走るという夢のような体験が終わった。
写真と文/山田洋