ウリケに着いた翌朝、レースの試走会が行われることになっていた。僕らはそれに参加すべく、まずは腹ごしらえすることに。日本を始め、世界的ベストセラーになった「BORN TO RUN – 走るために生まれた」(NHK出版)により、タラウマラという名と共に究極のパワードリンクのように紹介されたピノーレと初めて出会うことになる。
本の中にも出てくるレストラン「ママ・ティタ」を切り盛りするママティタは、見知らぬ日本人8人に対して快く笑顔で迎えてくれ、トルティーヤとサルサソースと一緒にピノーレを出してくれた。
この写真が、当地でまず出てくる3種の神器。そのトルティーヤと横にサルサソース。そして手前がピノーレ。無理矢理当てはめるとすれば、日本食でいう、ご飯に醤油、そしてみそ汁。そんな感じか。
作り方はいたって簡単。乾燥させたトウモロコシを煎って、その後石臼などで細かくパウダー状にし、それを水(またはお湯)で溶いたもの。お好みで砂糖を入れて甘さを加える人もいるという。ララムリはそれこそみそ汁のように毎日毎食ピノーレを口にし、長距離レースの補給食(?)代わりにいつも摂取する。実際、レースのエイドでもピノーレは常に置いてあった。
本に書かれていることは果たして本当なのか? ララムリは本当にこんな簡素なものだけで過酷な超長距離レースを走り切れてしまうものなのか? 今回の旅を通じて、どうしても確かめたかったことの1つがピノーレだった。
初めて口にした時の印象は今でもよく覚えている。実は僕は、漫画「ポパイ」の、あのほうれん草のように、それまでの疲労が一気に吹き飛び、飲んだその瞬間からパワーがみなぎる。そんな先入観を持っていた。しかし、実際のピノーレは違った。日本のトレランシーンで愛用されている様々なジェルのように即効性のあるエナジードリンクというより、タンクの中にしっかり貯蔵され、じわじわと効果を現すような、気力体力を維持する働きなのではないかという気がした。
ママティタで出されるピノーレにはシナモンが入っていて、とても香ばしく、いくぶんか飲むやすく調合されていたが、十分に美味しかった。「これ、結構いけるよね?」一口入れたときのみんなの感想だ。もし、無理矢理例えるとすれば、レースの途中でおにぎりを口にしたときのような感覚に似ている。もちろん、味がってことではなく、体内に取り込んだときの感覚がちゃんと固形物を摂取し、これでしばらくはハンガーノックにはなりそうにない、そんなイメージに近い。だけど、どうしてこんなものが? ただトウモロコシの粉を溶かしただけのものが超長距離レースを助けるのだろうか? (この考察は後で)
コッパーキャニオンの峡谷地帯は肥沃な大地と呼ぶにはほど遠い荒涼としたもの。土地は痩せ、得られる食材は極めて限定的で、毎食毎食ほぼ同じメニューの繰り返しだ。
例えば…
これは朝食。3種の神器以外にプレートに乗っているのは、手前が卵の和え物、右上がインゲン豆を煮たフリフォーレス、そしてアボガドとサルサソース。 | |
これは夕食。下から、コーン入りライス、牛肉の煮込みもの、フリフォーレス。そしてピノーレの代わりにビール!ビールは別として、ララムリたちは、これを365日3食摂る。 | |
レストランによってはコリアンダーがアクセントになるところもあった。 | |
フリフォーレスは欠かさず登場し、オプション的にワカモレや卵、鶏肉と牛肉もあった。だけど、ララムリは下界の町のレストランと違い、峡谷の山の上で自給自足の生活をしているため、バリエーションはずっと少ない。鶏肉と牛肉など肉類(動物性タンパク質)はおそらくハレの日に取る程度で、牛は畑を耕すための労働力としての意味合いが強い。様々な食材に溢れ、世界中の料理を口にすることができる日本の環境とはまるで違う食文化だった。当然、素朴な疑問が浮かぶ。「これで栄養は足りているのだろうか?」
日本に戻ってから1枚の写真を添えて、この疑問を友人ドミンゴ(一応、日本人です)にぶつけてみた。彼はULTRA LUNCHというプロジェクトを始めていて、食とランの関係を掘り下げていたからだ。その写真とはこれ。
左から「ララムリの行商のおばちゃんから買ったトウモロコシの粉」「町の売店で買ったトウモロコシの粉」「日本で買ったトウモロコシの粉」
彼の考察によると…、日本のと現地の違いは【品種の違い】と【全粒粉か否か】ではないかという。品種の違いについては、日本人が食べているトウモロコシはスーパースイート種であることが多く、現地のは原種に近いフリントコーンという硬粒種。とはいえ、同じトウモロコシということで品種による栄養組成の違いがどれだけあるのか、科学的解析をしてくれるところを探しているところです。(協力者求む!)
次に、全粒粉か否かの違いについて。日本のは精白されていて、現地のは精白される前に砕かれた全粒粉と推察される。それが色の違いではないか。トウモロコシ粉の場合、精白するとたんぱく質の20%が失われ、多価不飽和脂肪酸(オメガ3、オメガ6系)の20%が失われる。また、食物繊維は70〜100%、ビタミンB群は31%、そしてミネラルは20%も失われるという。
トウモロコシには糖質、脂質、たんぱく質、ビタミン、ミネラルが豊富に含まれているそうで、ララムリ達が口にしているピノーレ(トルティーヤも含む)は、精白してしまえば消えてしまう栄養素がそのまま残っている高栄養食と言えるそうだ。まとめると、こうなる。
☆主要栄養素
・炭水化物に富んでいる(食材の持つカロリー中、炭水化物由来が8割以上を占めている)
・脂肪の中では多価不飽和脂肪酸の占める割合が大きい(中でもオメガ6系が圧倒的に多い)
・一食分から摂れるたんぱく質も重量的には十分
☆微量栄養素
・ビタミンの中ではB群を抜群に保有している
鉄、マグネシウム、亜鉛、などは十分
ドミンゴの見立てでは、ピノーレに含まれるものは、即効性のあるものとしてというより、常用食としてその成分は申し分ないという(僕が初めて口にした時の印象は間違っていなかった)。だけども、ピノーレも完璧ではない。つまり、足りない栄養素もある。例えば…
・必須アミノ酸の中でリジン、トリプトファンに乏しい
・カルシウムはあまり含まない
そこで僕はもう一枚の写真を見せた。
これはレンズ豆のスープ。前出のフリフォーレス(インゲン豆を煮たもの)同様、ララムリ達は豆類も常食している。この豆類の主な構成栄養素は、
・炭水化物に富んでいる
・たんぱく質がとても豊富
・必須アミノ酸のリジン、トリプトファンが豊富
・ビタミンB群を抜群に含んでいる
鉄、マンガン、カリウム、リンなどのミネラルが豊富
トウモロコシの不足分リジン、トリプトファンを補完していることが分かった。つまり、ララムリたちが常食しているトルティーヤ、ピノーレ、豆類、たったこれだけで日常食として十分だったのだ。その他には、どうしても動物性食材からでしか摂取できないビタミンB12をたまのハレの日に卵や鶏肉・牛肉を摂っていれば、十分なストックになっているとのこと。
痩せた大地で、十分な食材に恵まれず、毎日毎食同じものばかり食べていたその内容は、実はとても理に叶っていて、彼らのミニマルな食生活は決して栄養不足になっていなかった。そして、ピノーレは超長距離レースを助けるに十分な働きを持っていたことが分かった。
僕は「ベルツの実験」を思い出した。明治時代にドイツ人医学者エルウィン・ベルツと言う人が政府の招きで来日し、東京医学校(東京大学医学部の前身)で26年間教鞭をとり、日本の医学の発展に多大な貢献をした人がいた。ある日、ベルツは日光東照宮を見に、東京から日光まで馬に乗って行った。途中で馬を6回乗り替え、時間にして14時間で着いた。2回目に日光に行く時、今度は人力車に乗ってみると、車夫は1人で14時間半で走ってしまう。ここでベルツは実験をしてみたのだ。
ベルツは人力車夫を2人雇って3週間彼らの食生活を調査。ドイツの食生活に習い、肉類などの高タンパク・高脂質のいわゆる彼らの理想とする食事を摂らせながら体重80キロの人を乗せて、毎日40kmを走らせたところ、3日目で疲労が激しくなり、「元の食事(米・大麦・イモ類・栗・百合根など(高炭水化物・低タンパク・低脂質)に戻して欲しい)と嘆願される。仕方なく食事を元に戻すとこれまで通り元気に走れるようになった。というもの。
かつて日本人は、お米と大豆(もしくは大豆加工食品)やイモ類が中心で、そしてハレの日に魚や肉を食べていた。飛脚はその程度の食で100km以上も走り続け、ハードな山岳修行として有名な千日回峰行を行う修行僧の食は、玄米に汁物とごま豆腐程度の簡素な精進料理。ある意味、ララムリたちと似た食文化だと言える。
精白させることによって多くの栄養素を失い、その失った分を凝縮させたサプリメントやジェルで補う。そんな摩訶不思議なことを行っている現代社会だが、ララムリ達が特別なパワーフードを食し、秘密のエネジードリンクを有しているわけではなかった。かつての日本に、僕らの足下に答えは転がっていたのだ。
日本で、ララムリ達が口にしている「ピノーレ」と同じものを再現出来るのか? 科学的解析後、その成分が明らかになった後のステップとなるだろう。そんなに遠くない日、日本のトレラン大会のエイドに「ピノーレ」が登場する日が訪れるかもしれない。
「ママ・ティタ」の厨房。これらからチョイスしてお皿に盛りつけてもらっていた。味はどれも美味しく、僕らの口に合うものばかりだった。
■ドミンゴの考察
#1 http://onyourmark.jp/columns/43600
#2 http://onyourmark.jp/columns/43696
■ドミンゴ主催ULTRA LUNCH http://ultralunch.com/about
写真と文/山田洋