世界最高の山岳アスリートの一人。スペインのキリアン・ジョルネ(Kilian Jornet)が、トレイルランニングの現在地と今後の変化を「10の側面」から論じました。五輪種目化の可能性と代償、エリートの収益構造(賞金よりスポンサーが中心)、テクニカルレースの縮小リスク、アンチドーピング体制の課題、参加コスト上昇による“トライアスロン化”、ローカルコミュニティへの回帰、チーム化による競技とキャリアの変化、アスリートのメディア化、中国・東南アジアの存在感拡大、そしてトレーニング潮流の次の段階までを俯瞰し、スポーツのアイデンティティと包括性のバランスが重要になると提起しています。

1.オリンピックは夢か、それとも分岐点か
トレイルランニングのオリンピック種目化は、競技の知名度向上や国際的な参加国拡大につながる可能性がある一方で、競技そのものの本質を変えてしまうリスクも孕んでいるとキリアンは指摘します。SKIMO(スキーモ)が五輪化までに20年を要し、その過程で競技形態が大きく変質した例を引き合いに出し、五輪は必ずしも競技人口の増加やアマチュア層の活性化を保証しないと強調します。
仮にトレイルランニングが五輪競技になった場合、距離や技術性の異なる複数の種目ではなく、単一種目に集約され、テレビ放映や観客動線を優先した周回型レースが主流になる可能性が高いと分析。これは競技の標準化を促す一方で、トレイルランニング本来の多様性や冒険性を希薄化させる恐れがあります。結果として、五輪仕様のトレイルと、従来のトレイルが並行して存在する未来像が現実的だと述べています。
2.エリートの収益構造:賞金よりスポンサーが中心
プロトレイルランナーの数はこの20年で増加し、競技のみで生計を立てられる選手も一定数存在するようになりました。しかし、その収益の中心は賞金ではなく、あくまでスポンサーシップであるとキリアンは整理します。
多くのトレイルレースは非営利団体や地域クラブによって運営されており、賞金額には構造的な上限があります。高額賞金を掲げた大会が必ずしも成功や継続につながらなかった過去の事例を挙げ、トップ選手は賞金額よりもレースの歴史性や象徴性、スポンサー価値を重視する傾向が強いと分析。
トレイルランニングは「観戦スポーツ」ではなく「実践スポーツ」であり、その特性上、テレビ放映権や入場料による大規模な収益化が難しいことも、現在のモデルを規定していると述べています。
3.テクニカルレースは消えていくのか
参加者数の増加と競技の大衆化は、安全管理や保険、責任問題を主催者に重くのしかからせています。その結果、かつて存在した極めてテクニカルで危険度の高いレースは、姿を消すか、難易度を下げる方向へと変化してきました。
距離と獲得標高だけで評価される現在の指標では、岩稜帯やスクランブリングといった「技術性」が正しく評価されず、結果としてテクニカルなレースが不利になる構造があると指摘します。
キリアンは、距離・標高差に加えて「技術的難易度」という第三の軸を導入しなければ、トレイルランニングは単なる起伏のあるクロスカントリー競技へと近づいてしまう危険があると警鐘を鳴らしています。
4.アンチドーピング体制の課題
賞金やスポンサー規模の拡大に伴い、トレイルランニングにおけるドーピング対策は避けて通れない課題となっています。現在はレースやシリーズごとに検査体制が分断されており、競技会外検査(OOC)がほぼ存在しない点を問題視します。
競技団体やシリーズが複数に分かれていることが統一的なアンチドーピング体制構築を難しくしている一方で、近年は世界陸連やWMRA、UTMBなどが協調に向けた動きを見せていると説明。
キリアンは、感情的な批判ではなく、制度の仕組みを理解した上で、段階的に実効性のある体制を構築していく必要性を強調しています。
5.トレイルランニングの「トライアスロン化」
参加費や装備コストの上昇により、トレイルランニングは経済的に余裕のある層へと偏りつつあります。特に有名レースでは、登録料に加え必携装備が参加の大きな障壁となり、地域密着型の小規模レースが存続しにくくなっていると指摘します。
一方で、女性参加率は過去20年で大きく改善しており、短距離では男女比がほぼ均等に近づいています。ただし距離が長くなるにつれて女性比率が低下する現象は依然として残り、文化的・社会的要因が影響していると分析しています。
競技のプロ化と包括性の両立が、今後の大きな課題だと位置付けています。
6.ローカルコミュニティへの回帰
グローバル化と情報過多が進む一方で、人々が本当に価値を感じるのは、自らが属する地域コミュニティでの体験だとキリアンは述べます。FKTやローカルレース、クラブ活動など、外部からは見えにくいが内部では強い意味を持つ活動が今後も重要になると指摘。
高額で大規模なレースとは対照的に、参加しやすく、地元に根ざしたトレイル文化が並行して発展していく未来を描いています。
7.チーム化がもたらす競技とキャリアの変化
多くのトップ選手が、プロサイクリングのようなチーム体制で活動するようになり、トレーニングや装備開発、遠征面でのサポートは充実しています。その一方で、契約はより成果主義・短期化し、パフォーマンス低下によるリスクも高まっています。
レーススケジュールやプロジェクトがスポンサー主導になる傾向が強まり、かつてのような自由な冒険的挑戦が減少している点を懸念として挙げています。
8.アスリートはメディアである
ブログ、YouTube、ポッドキャストなどを通じて、アスリート自身が情報発信の主体となる時代が到来しています。ブランド主導のコンテンツから、アスリート主導の発信へと移行する中で、スポンサーシップの形も変化。
これはトレイルランニングに限らず、マウンテンスポーツ全体で進行している潮流であり、アスリートの役割が競技者からメディアハウスへと拡張していると整理しています。
9.トレイルランニングは中国・アジアへ向かう
今後の経済的成長エリアとして、中国や東南アジアの存在感が急速に高まっていると分析。巨大なランナー人口とギア市場を背景に、賞金規模の大きなレースが増加し、国際シリーズもアジアが比重を高めています。
一方で、南米やアフリカは才能豊かな選手がいるにもかかわらず、市場やスポンサーの優先度は依然として低い現状も指摘しています。
10.次に来るトレーニングの潮流
センサー技術や生理学的データの進化により、トレーニングはますます数値化・高度化していくと予測。一方で、それらを正しく解釈できなければ意味を持たず、派手な即効性を謳う手法に振り回される危険性もあると警告します。
最終的には、基礎的で地道なトレーニング、自然との関係性、ストレス管理といった普遍的要素が、パフォーマンスの大部分を占めるという原点に立ち返る必要があると締めくくっています。
元記事
🔗 Trail Running 2026, where are we, where are we going.(Kilian Jornet)
■Kilian Jornet(キリアン・ジョルネ)
世界最高の山岳アスリートの一人。スペイン生まれ、37歳。競技シーンにおいて、世界中の選手権やレースで優勝し、山岳スキーとトレイルランニングのシーンを席巻してきました。スペイン・ピレネー山脈の山小屋で育った彼にとって、山は常に生活の一部であり続けてきました。スキー、ランニング、クライミングのいずれにおいても、山は彼の遊び場となっています。アルパイン・クライミングにおいても類稀なアスリートであり、酸素ボンベ、無線、ロープを使わずにエベレストを6日間で2往復するという偉業を成し遂げたことで一躍有名になりました。現在、キリアンはノルウェーに住み、山で自分の限界に挑戦し続けています。映画、書籍、デジタルコンテンツを通じて多くの人々に感動を与え、環境保護への意識を高めるため、気候変動への提言も行っています。














